“日本の緑茶”と言えば、今や日本だけでなく、世界で知られるお茶のひとつ。爽やかな香りや味わいを楽しむ方、健康を意識する方、抹茶のスイーツを好む方と、幅広く人気のあるお茶となっています。
しかし、その昔、苦戦を強いられた時期もありました。
今回は、海外における日本茶の、広告の歴史について書いていきたいと思います。
今から200年ほどむかし、日本では江戸時代だった1800年代後半の頃、世界では、あらゆるところで万国博覧会が開催されていました。
1867年に開催されたパリ万国博覧会には、日本が初めて参加。徳川幕府、薩摩藩、佐賀藩が、それぞれの出展を行いました。(徳川幕府は全ての藩に出品を呼びかけたものの、興味を示して応じたのはこの二藩のみだったと言います)
しかし、1867年と言えば、大政奉還が行われた年。江戸幕府の参加はたった一回、これきりのことでした。
そして、1873年のウィーン万博では、日本政府として初の公式参加。敷地内には日本庭園が設けられ、皇帝・皇后も来場し、橋の渡り初めを行います。出展された七宝焼きや金銀細工、西陣織などは海外の人にとってどれも目新しく、話題となり、中でも扇子、陶器、漆器の売れ行きは凄まじかったそうで、日本ブームを巻き起こすこととなりました。
時は流れて1893年、シカゴ万博博覧会が行われます。
日本が目指すのは、交易推進。すると、「それは好機!」と、日本茶業界が名乗りを上げました。そして、その動きに日本政府も補助金を与え、万博において、日本庭園が造成されることに。茶店を開き、お茶を点て、試飲してもらい、サンプルを配布するなど、当時においては画期的な、現代と変わらぬプロモーションを行った日本茶業界。記録によると、半年間の会期中において16万人もの来場を誇る盛況ぶりであったのだとか。
まさに、「日本茶キャンペーンは大成功!」と言える万博となりました。
シカゴ万博では、日本館建設のため、日本より職人が送り込まれていました。そして、日本館建築の様子は会場にて披露され、日本特有の作業風景が繊細かつ躍動感にあふれると注目が集まり、開催前より大きな話題となっていたと言います。
そんな中での、万博の開催。上の項目でも書いたように日本茶は成功。これはもう、世界進出は約束されたと言っても過言ではない状況だったのです。……しかし、輸出量が伸びることはありませんでした。
というのも、その日本の成功を超えるお茶の存在があったから。
それは、セイロンのお茶(紅茶)。
シカゴ万博ではセイロンティの宣伝も行われており、かけられた宣伝費用も日本の比ではなく、結果、日本茶は負けてしまったのです。
シカゴ万博以降、紅茶は躍進。世界各国に知られるお茶となりました。
とはいえ、日本茶業界は諦めたわけではありませんでした。
当時のソ連で人気のあった緑茶を、地続きのアフガニスタンへ持ち込みます。アフガニスタンはイスラム教徒が多く、イスラムでは飲酒が禁じられていたため、緑茶は広く好まれました。そしてペルシアを経由し、中東から北アフリカへ。アルジェリア、チュニジア、モロッコなどへも売り込み、成功。そこから、「いよいよアメリカ市場へ!」という段階まで漕ぎ着けたのですが、ここへ着て戦争が勃発……。
またしても、緑茶の売り込みはとん挫することとなったのです。
緑茶が注目を浴びるきっかけは、意外なところにありました。
2つの世界大戦が終わり、食糧難に見舞われた日本。アメリカは、多くの援助物資を届けてくれました。そして日本は返礼品を送るわけですが、そのひとつに選ばれたのが緑茶。その返礼品の緑茶こそが、躍進のきっかけとなったのです。
実はその頃、緑茶の効果効能については一部がすでに発見されており、それも足掛かりとなりました。途中、中国茶の世界進出や円高など、いくつもの苦難が立ちはだかるものの、健康志向の高まりや和食ブーム、抹茶スイーツの人気も下支えとなり、緑茶はしっかりと苦難を乗り越え、世界各国、幅広く緑茶が飲まれる時代が来たのです。
そして今、コロナ禍を経て、世界各国、ネットショッピング利用が加速しています。緑茶市場の活気は、今後ますます伸びゆくものとなるのかもしれません。