1868年、長きに渡り続いた江戸時代が終わり、明治へと変わった時、人々の暮らしも大きく変化することとなりました。
着物から洋服へ、ちょんまげから散切頭へ。
また、牛乳が飲まれるようになり、洋食屋さんができたのもこの頃です。
そんな中、東京都心部に茶畑が広がることとなります。それは、なぜだったのでしょうか。
いつの時代も変化は起こるものですが、中でも江戸から明治への変化は、とてつもなく大きなものでした。
上記で書いたような見た目や食の変化だけでなく、日本という国そのものの在り方が変わったのです。
東京においては、居住人口の半分を占めていた武家社会が崩壊したことにより、一気に景気が悪くなるという事態となりました。今の東京からは想像もつきませんが、都心部は空き地だらけになっていたと言います。
そこで政府は、当時の輸出の要となっていたお茶に目を付け、東京都心部を茶畑とするべく、開拓を推奨。
それにより、東京都心部に広大な茶畑が広がることとなったのです。
ただ、その栽培にあたったのは、仕事を失った士族やお茶の栽培に疎い近隣の農民たち。お茶を上手に育て、製茶するといった技術が伴うわけもなく、決して美味しくはないお茶しかできなかったと言います。
しかし、そこで終わることはありませんでした。
幾人かがお茶の産地へ赴き、技術を学び、習得。また、美味しいとされる苗木を取り寄せるなどし、どんどん成長。なんと、銘茶と呼ばれる『松濤茶』を誕生させるに至ったのです。
明治に生まれた渋谷産の『松濤茶』は、東京の人々に広く愛されるお茶となりました。
江戸の終焉、そして武家社会の崩壊が生んだ松濤茶。
人々の努力もあり、東京では名の知れた銘茶となったわけですが、実はその歴史は短く、すぐに幕を閉じてしまうこととなります。
その要因となったのが、東海道線の開通(明治22年)でした。
スムーズな流通が生まれたことにより、東京へ、茶の名産地から数多くのお茶が押し寄せたのです。銘茶と呼ばれた松濤茶ですが、歴史ある高級茶に敵うはずもありません。
松濤茶は、20年と持たずに無くなってしまいました。
そしてその頃から、渋谷には多くの住宅が建つようになります。
当時、茶畑のあったエリアは高級住宅街となり、茶畑の名残はもうどこにも見当たりません。
松濤の名が地名としては残るものの、“松濤茶”自体は無くなり、幻のお茶となってしまったのです。
実は、静岡においても、東京と同じく士族の手によって開拓された地がありました。
そのきっかけは、最後の将軍 徳川慶喜公。
江戸が終わって明治となり、徳川慶喜は東京を離れることになりますが、その際、隠居の地に選んだのが静岡でした。そして、徳川慶喜を警護する意味もあり、共に静岡に付いてきた士族がいたものの、版籍奉還によって職を解かれてしまいます。士族としての役割が無くなり、職を失った人々は働かなくてはならず、茶農家となる決意を固めます。
そこで、牧之原という地の開拓を担うことになったのです。
とはいえ、それは容易なことではありませんでした。
当時の牧之原はまだ荒れ地で、水を引くことから始めなければならなかったと言います。それでも苦難を乗り越え、茶畑を作り上げた人々は、次第に美味しいお茶を作れるまでになりました。
ついに、元士族から本当の茶農家になったのです。
そして、その地こそ、今も同じ名で残る“静岡県牧之原市”。
静岡は、元より茶の名産地。東京とは異なり、牧之原市はその歴史を守り続けることができました。
今は、牧之原は広く知られるお茶の産地となり、毎年、美味しいお茶が作り続けられています。
江戸から明治へ。
その時代の流れが、実は”お茶”にも大きな変化をもたらすこととなっていました。そしてその過程の一部に、東京都心部一面に広がる茶畑の存在があったのです。